「注文の多い料理店」を再び読んでみた

こんにちは。

朝、携帯をいじっていて今日8月27日は宮沢賢治の誕生日だと知りました。

宮沢賢治作品って、中学生の時に読んだなあ、と懐かしく思い出しました。読書感想文を書くために読んだ人も多いと思うし、私は「銀河鉄道の夜」とか「セロ弾きのゴーシュ」とかいくつか読んだ記憶があります。

当時読んだ宮沢作品に抱いたイメージは、とにかく幻想的で非日常の世界がどんどん展開する感じで、おまけに猫とか熊とか動物がフツーに登場してくるという「なんだか不思議な世界」でした。その一方で宮沢賢治の代名詞「雨にも負けず」みたいなド直球作品もあるわけで、感受性が平凡な中学生の頭の中は混乱するばかりでした。

そういえば、「注文の多い料理店」には犬や猫がでてたな。でもこの作品も日常を突き抜けたような設定でなんだか風変りな印象が強く、当時の私にはこの作品に込められた賢治のメッセージが理解できませんでした。

もう一度読んでみようかな。You Tube でみつけたので賢治生誕の日に朗読を聴いてみました。

日本を代表する作家としてあまりにも有名な宮沢賢治ですが、数々の名作が出版されたのは彼の没後でした。「注文の多い料理店」を表題作とする短編集が生前に出版された唯一の作品でした。彼はたくさんの名作が世に認められる前に亡くなっていたんですね。

2人の若者が(たぶん裕福)山へ猟をしにきました。ところが猟はさんざん、連れてきた猟犬も泡を吹いて倒れてしまいます。疲労困憊して空腹な2人は山の中に突如現れた洋館「山猫亭」を見つけ入ります。「何かうまいものをただで食わせてくれるに違いない。」根拠のない期待をもって。

この山猫亭、2人に次々と奇妙な注文をしてきますが、2人はその意味に気づくどころか自分たちに都合よく解釈して、注文に応えていきます。

最後の注文「自分の体に塩をたっぷり塗り込んで。」のところで2人はようやく気づきます。猫たちの策略で自分たちが食べられるてしまうことを。

もはや絶体絶命のところへ倒れたはずの猟犬が乱入し、2人は命からがら逃げだすことができました。ところが2人の顔は恐怖でくしゃくしゃになり元に戻ることはありませんでした。

以上があらすじでした。でも実際読んでみたほうがわかりやすいと思います。

中学生の頃はこの物語の意味やメッセージがわからずに消化不良のまま終わってしまいましたが、歳を重ねた今読んでみると「ああ、そうなのか。」と思えることができました。

裕福でインテリのはずの若者2人が、立派な洋館という権威の前では何でも信じてしまい従うということへの痛烈な皮肉であり、その滑稽やばかばかしさを暴いています。

宮沢賢治の実家は裕福な質屋で、彼の学業も豊かな生活も実家の繁栄が土台であるわけです。しかし彼は、実家の裕福さは農民たちの貧困や犠牲の上に成り立っていることに嫌悪感を抱き、その苦しい心情を物語の若者2人への皮肉と言う形で表現したのでは、と感じています。

また、物語の冒頭、2人で獲物が殺される様をおもしろおかしく語り合うシーンがあるのですが、殺生する側がなんと殺生される側になろうとしている逆転劇も、かなりキツイ皮肉だと思います。

動物や自然、すべての命あるものとの共生を望んだ宮沢賢治のヒューマニズムがこの物語にも流れていました。

何十年ぶりの「注文の多い料理店」でしたが、また読むことができてよかったと思っています。

賢治が東北の飢饉のときに書いたと言われる「雨にも負けず」はもちろん好きですが、

名言「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(農民芸術概論綱要)も大好きです。

なんだか少し背筋が伸びるような気分です。

宮沢賢治が生きた時代から100年近く経っていますが、もし彼が今の時代を生きていたとしたら、犬や猫、動物の状況をどのように描いてくれたでしょうか。今も残る写真の、あの真っ直ぐなまなざしをみるたびに思います。

宮沢賢治の名言集

 

 

 

 

 

 

 

「ほぼ日」の怪談と糸井さんのブイコちゃん

こんにちは。

怪談はお好きですか? 今まさに8月なのでほぼ日の怪談2018 を毎日楽しみに読んでおります。このサイトは100%読者の投稿で構成されていて、まさにリアルな恐怖体験が生々しく恐ろしいと評判のようです。

プロのライターが余計な脚色をしていない分、よりいっそう怖い恐ろしいというのが高評価の理由のようです。書籍化もしており売上げ好調とのこと。

このサイト、すご~く怖いかといえば、怖いとも思うし、ちょっとだけ怖いとも思います。歳をとった分、怖いものに鈍くなってきたともいえるし、現実には「一番怖いのは今生きている人間」という言葉の意味がすこーし分かってきたりしますから。

投稿記事の中で結構多いのが亡くなった両親、祖父母、親友などが投稿者を心配して戻ってきてくれたのを霊体験したというものです。これは読んでいてもあんまり怖くないんですね。だって心配して来てくれたんだもの。なんだかお盆で戻ってきたご先祖に会えた、ぐらいの感覚ですよね。

そんな怪談を読んでちょっと震えたあとは同じほぼ日サイトの糸井重里さんのエッセーを読んだりします。1998年のサイト立ち上げ以来、1日も休まず更新されている、って20年以上じゃないですか?すごいことです。

糸井さんは今年の3月に愛犬のブイヨンちゃん(ジャックラッセルテリア)を亡くされた後はご自分の年齢を考えて(糸井さんは1948年生まれ)一時は犬を飼うことを諦めていました。

ですが! 8月21日にほぼ日サイトと自身のツイッターで生後100日すぎの子犬ブイコ(ジャックラッセルテリア)を家族に迎えることを発表しました。

 ブイコちゃん、ほぼ日サイトより画像お借りしました。

自分の年齢と犬の寿命を考えると、誰でもどこかの時点で犬を迎えることを諦めざるをえません。それは誰でも同じ。でも犬が大好きで、もう一度一緒に暮らしたい人はどうすればいい?

糸井さんはそれまでほぼ日サイトでも支援している動物保護団体の保護犬の「預かりボランティア」をしようと考えていたそうです。

「預かりボランティア」という言葉、最近よく耳にするようになりました。自身の年齢や環境のため犬や猫を家族にはできないけれど、ボランティアとして一時的に保護犬や保護猫を預かるというシステムです。人慣れしていない保護犬を家庭環境に慣れさせたり、離乳前の子猫を育てるミルクボランティアなど、犬猫の飼育経験豊富なシニアが活躍されています。

糸井さんの場合は、奥様が10歳年下であること、娘さん夫婦がこれまた犬好きというリスクの受け皿がすべて整っていたということで、ブイコちゃんを迎えることに踏み切れたようです。

自身が飼い主となること、預かりボランティアとなること、どちらを選択するかはそれぞれだと思いますが、大好きな動物と再び暮らせるってすばらしいですよね。

犬を亡くした後は、「自由に旅行ができる。」「お世話をしなくていい。」「時間を気にして急いで帰宅しなくていい。」など、いろんな自由を取り戻すわけですが、

「犬がいなくて自由なのは、もういい。」(糸井さんのエッセーより)

そうなんですね! この一言に尽きるというか。犬がいなくて旅行できる自由よりも、旅行できなくても犬と共に暮らす喜び、ですよね。

糸井さんはブイコちゃんを迎えることで預かりボランティアを諦めたわけですが、動物保護団体への支援はこれまで通り続けられるそうです。

ブイコちゃん、元気で育ってね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老犬のいとおしさを味わう2

こんにちは。

というわけで老犬を散歩させているといろんな方に声をかけられることが多く、ときどき「ん~」な思いをすることもある、ということを昨日書きました。

でもそれはほんの一部、少しです。たしかによろよろ歩く老犬を連れていると、少し驚いたような様子で見られることもありますし、そういう視線を感じたりもします。老いとか介護が自分の身近にまだない人、経験したことがない人にとっては自然に受け入れられない光景もあるかもしれません。

でもね、そんなことが気にならなくなるぐらい「人って温かいな」と思うことがたくさんあります。

「今日も頑張ってるね~。気をつけてね。」

「大事にしてもらったから長生きできたんだね。」

「おじいちゃんだけど、なんだかかわいい。」

老犬になってから声かけて頂くようになった優しい言葉の数々。嬉しいです。若いころはスタスタと散歩に夢中で、声をかけられることもあまりなかったですから。長生きしてよかったね。

うちの犬がまだ若かったころの話です。散歩の途中でよく見かけた芝の老犬とおじいさんのことを今でも覚えています。

毎日すれ違うのに、おじいさんは寡黙な方でごあいさつもできませんでした。ですが、老犬とおじいさんの後姿はいつも幸せそうで、愛情を注いで互いに歳を重ねるってこういうことなのだな、といつも思ってました。

何年か経ったある日からその老犬とおじいさんを見かけなくなりました。そして、その数か月後、おひとりで散歩をされるおじいさんを遠くから見かけました。あの芝の老犬はその愛情に満ちた寿命を全うしたのだな、と。

「大事にしてもらったから長生きできたね。頑張ってね。」

自分が言われて嬉しかった言葉を老犬とおじいさんにもかければよかった。寡黙で話しかけ辛いおじいさんだったけど、そんなこと気にせずにあのとき話しかければよかった、今でもそう思っています。

子犬や子猫はかわいい。無条件で愛らしい。

でも、老犬は無条件でいとおしいです。かわいくて、いとおしくてしかたがないです。このいとおしさをいつまでも味わっていたいです。

老犬と暮らした人にしかわからない、なんて言っちゃうとそうでない人を突き放してしまうみたいだけど、、、長い年月思い合って歳を重ねて、どんどんいとおしくなる感覚、経験して初めてわかるものではないでしょうか。

若くてやんちゃだったはずの子(犬)は人間の何倍もの早さでその生を進んでいきます。気がつけば老犬になっていて、あとどれだけ一緒にいられるのか、どうか一日でも長く元気に、そう思うと毎日が大切でいとおしいものになってきます。

普通に街を歩いていて見かけるのはまだ若かったり足腰のしっかりした犬の散歩ですよね。足が弱った老犬の散歩は少ないと思います。

もし、声をかけるなら、「かわいそう」じゃなくて

「幸せだね。」「頑張って。」「いつまでも元気でね。」が

いただいていちばん嬉しい言葉かな。

シニア年齢の犬猫の飼い主様、みなさまのいとおしい子がいつまでも元気で健康でありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老犬のいとおしさを味わう

こんにちは。

ずっと思っていたけれど敢えて口に出さなかったことがありまして、そしたら先日私が思っていたことそのものずばりをつぶやいてくださった方がいて、世間ではそのツイートに対する賛同が満ちあふれ、私もとても嬉しいです。

このツイートです。

投稿者はもも@momodog22 さんという方で18歳近い甲斐犬の老犬を看取るまでの思い出をツイートされています。

私も現在この投稿者さんと同じく18歳近い老犬(雑種♂)の介護中です。

とにかく散歩が大好きな犬で、15歳になるまでは朝晩あわせて1日合計2時間30分は散歩していました。ところが16歳を迎える前ぐらいから後ろ足が徐々に弱り始めました。

17歳になってからは自力で歩けるというものの、トボトボ、よろよろという感じで座り込んだり、つまづいて尻もちをつくこともしばしばです。

階段の登り降りはもうできません。前足の力はまだ残っているので、階段の登りは後ろ(下)から押し上げる感じで、降りるときは危ないので抱っこです。歳を取ってかなり痩せたんですが(私じゃなくて犬が)、それでも13㎏あるので重いです。

そんなかんじで誰がどう見てもガチな老犬が散歩していると目立つのでしょうか、道で声をかけられることが増えてきました。だいたい1日に2~3回ぐらい。声をかけられない日はまずありません。

犬がまだ足が弱る前、普通に歩けた頃はほとんど道で声かけられることはありませんでした。よほどの犬好きさん以外は。

上のツイートのように、「あらら、かわいそう」なんて言われたことはさすがにありませんが、というか、そんなこと言われたらなんと返せばいいんでしょうね。

「かわいそう」って、なんでしょう。もし足の弱ったご老人が歩いていても「かわいそう」なんて絶対に言わないと思いますが。

私も言われたことがあります。()の中は私の心のつぶやきです。決して声には出しませんが。

「いくつになった? だいぶ弱っとるね。」→(そういうおじさんもだいぶ弱っとると思うけど)。

「こんな足でも散歩行くの? 行きたくないって言わない?」→(足が弱っても散歩は好きなんだよ。散歩しないと弱るんだわ、足が。)

「がんばって歩かないといかんぞー。」→(足が弱いから休んでるんですけど。分らないかな。)

相手が人間ならば普通は言えないでしょ、みたいなことを言われます。こういう発言するのはほぼ団塊世代以上の男性が多いような気がします。悪気はないけど物言いがストレートすぎるというか、悪く言えば相手の心情を考えてないというか。

全部じゃないですよ、同世代の人でも優しくてユーモアのこもった言葉をいただいた方もいるし。

でもね、「ん~」な言葉よりうれしい言葉のほうがずっとずっと多いです。続きは明日にしますね。

このもも@momodog22 さんのツイート、初めて知りましたがかなりおもしろいです! 老犬の魅力を語りつくします。

「エアコンは老犬のためにある。」

「老犬が不足している。老犬が足りない。」

などの名言(私が認定しました)も数々あります。老犬だけでなく犬好きの方、ぜひ覗いてみてください。

 

 

 

 

 

送り火の日の雑記

こんにちは。

地元の代表、愛工大名電の夏が終わりました。

今日の朝はいつもより少し早起きして犬の散歩やごはん、猫トイレ掃除や猫ご飯の支度を早めにすませました。

大急ぎで家事をすませて8時と同時にテレビ前にスタンバイします。

「頑張れー、愛工大名電!」

あああ~、、がんばって応援したけど結果は残念でした。

エラーとかもあったし、報徳学園ほどの強者がそれを見逃すはずないし、しかたがなかったね。

初戦はあの話題の白山高校と対戦し注目を集めたし、ハイレベルな応援団、ブラスバンドも聴きごたえ抜群でした。 Deep Purple やってましたよね!

愛工大名電は激戦の愛知県予選を勝ち抜いて甲子園への切符をもぎ取った強豪校。それを誇りにしていいよ。胸張って帰ってきてください。

来年も応援するよー。

昨日は午前中にお墓参りに行ってきました。猛暑が少しおさまったとはいえまだまだ暑かったです。そのあと母親と姉と合流し、お寿司と刺身でビールをいただきました。お盆らしい1日を過ごせました。

そして、今日でお盆も終わり。送り火の日。

お盆で戻ってきてたご先祖様も今日またあちらへ帰って行かれるんですね。

この歳になって恥ずかしくも初めて知ったのですが、お盆の行事って日本古来の祖霊信仰と仏教が融合したものだそうです。私は勝手に仏教行事だと思ってたのですが、実際は仏教が伝来して日本の社会に広がるずっとずっと以前から信仰として日本に根付いていたんですね。

私が見送った今は虹の向こうの猫さんたちも来てくれたかなあ。

お盆だから来てくれますよね。そんなに霊感ないので感じないのでしょうか。それとも、みんな優しい子ばっかりだから、脅かさないようにしてくれているのでしょうか。私がびっくりしないように。びっくりさせてくれても全然大丈夫なんですけどね。

私が好きな猫マンガ「俺、つしま」の中でとても好きなシーンがあります。

最年長のズン姐さんが大往生で旅立った1年後、残ったつしま、ちゃー、オサムはズン姐さんの言いつけを守り、平和な日常が流れます。

「ねえさんはいろんなところにいるよ。」

晴れた空を仰ぐつしま。空にはズン姐さんの形をした白くきれいな雲が浮かんでいます。

目で見えないから、触って感じないから、だから何もいないじゃなくて、いろんなところにいるんだと思います、ほんとは。私たちはただ感じればいい。

おまけは数日前の今池の夕空。少しだけ夕暮れが早くなりました。

 もっと鮮やかな夕暮れだったんだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

終戦日と猫

こんにちは。

8月8日に亡くなられた翁長沖縄知事のご冥福をお祈り申し上げます。

病状が悪化し、かなりお痩せになられてからも、あの強い、筋の通ったまなざしが変わることはありませんでした。命ある限り闘うってこういうことなのでしょうか。最後まで沖縄を愛し、沖縄のために尽力された翁長知事の魂が安らかでありますように。

8月15日がきて、今年も終戦日を迎えました。

8月に入ると、新聞の読者コーナーには戦争体験の投稿が多く寄せられ、特集なども組まれたりしますね。年月とともに戦争経験者が少なくなってきた今日、かれらが語る生の声がよりいっそう貴重なものとなってきました。

私の家は新聞購読辞めてしまったんですが、十数年前の新聞とってた頃のことです。何年前のどの日だったのか、中日新聞だったのか朝日新聞のどっちだったのかも定かでなくてすみません。

「終戦の思い出」のコーナーがあり、読者の戦争体験談がたくさん投稿されていました。その中で、沖縄の女性の方の一通の投稿に目が留まり、それから10数年、毎年終戦の日が近づくと、その方の投稿を思い出すんです。

シンプルで飾り気のない短い投稿でした。

不完全ながら記憶をたどってその投稿を再現すると、

 

終戦を迎えたものの、混乱がおさまらぬ沖縄での暮らしの中で、ある日1匹の猫が我が家に迷い込んできた。

悲惨な暮らしだったけど、食うや食わずはお互いさま、うちでよかったらと家に迎え入れた。その猫はうちで暮らし始めた。

それから何か月もたったある日、その猫は突然姿を消した。近所を探し回ったが見つかることはなかった。

落胆しながら家に戻ると、土間の上がったところに紙に包まれた牛肉の塊が置かれていた。

「あの子だ。」

すぐ近くの米軍基地からどうやって盗み、運んできたのであろうか。

短い間だったけれど寝食を与えてもらったことへのお礼だったのだろうか。

あの子はどこへ行ったのだろうか。毎年、終戦の日が近づくとあの子のことを思い出す。

 

終戦間もない沖縄での、人と猫の小さな、温かくも切ないエピソードでした。

人間ですら食うや食わずの、生き抜くことさえ困難な終戦直後の沖縄の生活の中で、ふらっと迷い込んできた見知らぬ猫を受け入れたこの女性の懐の深さ、そして自らを受け入れてくれた女性と家族への精一杯のお礼を置いて消えてしまった猫の去り際の見事さ、美しさ。

毎年8月になると思い出す、会ったこともない人と猫の小さなエピソードを私は来年も再来年も8月が来たら思い出すことでしょう。

この女性は今もご健在でしょうか。もしそうならお会いしてお話ししたいと思いますが、それもかないません。記名されていたお名前も、新聞は中日だったか朝日だったか、何年何月何日の記事だったのかも今はわかりません。切り抜きをしなかったことを後悔するよりほかありません。

だけど確かなことは、名古屋からずっと離れた沖縄での、猫好きでなければ気にも留めなかったであろう小さなエピソードを、私はこれからもずっと忘れないであろう、ということです。

人も、猫も、他の動物も、どの生物も自然も、いつも通りの生活がこれからも続きますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本が誇るあのおまつりにちゅーるが乱入

こんにちは。

今年の青森ねぶた祭にいなばCIAOちゅーるが登場、会場を沸かせたそうです。

あの東北三大祭り、8月2日~8月7日の6日間で300万人を動員するといわれる青森ねぶた祭に、ちゅーるが満を持して登場しました!

「青森ねぶた祭」。一度は行ってみたい、だけどなかなか行けない憧れのおまつり。実際訪れた方に聞いてみると、それはそれは幻想的かつ雄大、すばらしいおまつりで、一度経験するとハマってしまう、また行きたくなってしまう、とのこと。

そんな日本が世界に誇る青森ねぶたまつりにデビューを果たしたちゅーるですが、、、

私はちゅーるを食べている猫を観察するのが大好きです。目を細める子、大きく目を見開いて必死になめる子、2匹に1本をあげていると途中から殴り合い(笑)になったり、譲渡会とかで人慣れしていない子など「シャー」って威嚇しながらペロペロなめていたり(器用すぎるでしょ)、チュールをなめる作法は、まあ猫それぞれ、本当に見ていて楽しい。

このねぶたの茶トラ猫さんは「目を細める派」ですね。

飼い主さんといい、茶トラのねこさんといい、今日も元気だ、ちゅーるがうまい的な幸せ感出してますねー。これは会場湧くはずだわ。

先日のブログでも書きましたが、連日続く名古屋の猛暑、私は毎日うちのみいに冷やしちゅーるを召し上がっていただいております。冷蔵庫の中を確認してはちゅーるの補充に余念がありません。

夏場の水分補給として器に入れて少しだけ水を足してあげてもいいみたいですよ。猫は腎臓の病気にかかりりやすい動物なので、しっかり水分取ってほしいですね。

しかしこのちゅーる、塩分も含んでますので与えすぎ注意のようです。私も気をつけます。あと、生後6ヶ月未満の子猫にも与えないほうがよいみたいです。子猫はおやつよりもフードをしっかり食べて成長していただかなければ。

ちゅーるってテレビのCMもおもしろいですよね。

猫が夢中でちゅーるをなめる映像とともに流れる、あのゆる~いボーカルは中毒性あり? だけどほっこり幸せな気分になります。

私のお気に入りはCMフルバージョン版です。You Tubeでみれるやつです。出演は一般応募の全国の猫さんで思わずクスッと笑ってしまうかわいさです。

歌詞はまとめますと「いい子でお留守番してたからちゅーるちょうだいよ。」という内容なのですが、猫の主張のひとつに、

「花びんも割らずにまってたよ。」

というのがあります。花びん割らなかっただけでいい子、って猫らしいですね。

3分間フルで楽しめますよ~。特に後半の大合唱は圧巻です。気がついたら合唱隊に参加してるかもしれませんよ。私は気がつけばいつも歌ってしまう、、いなばさん、上手いな。

カラオケできたらヒットするよ! 絶対。

既にカラオケあったらごめんなさい。

それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月6日

こんにちは。

今日は8月6日、「原爆の日」です。

平成最後の「原爆の日」。

来年は新しい元号での「原爆の日」。

73年前の今日の朝8:15、広島に原爆が投下され、一瞬のうちに10数万人の尊い命が奪われてしまったこと。

その日の広島も今日みたいに暑くて、朝から晴れた日だったんだろうか。

その日の朝の広島に思いをはせるとき、人間同士の戦争に巻き込まれ、命を落としたたくさんの動物、犬や猫たちのことを思わずにはいられません。

戦争や大災害で多くの人間が犠牲となるとき、人的被害はのちに詳しく調査され、発表されるけど、動物に関しては、残念なことにほとんどないです。

多くの人が動物のことを心配しているとしても、「人間がたいへんな窮地のときに動物どころではない」みたいな、ふれてはいけないような雰囲気もあります。

かれらは言葉を持たない生き物。どんなに悲惨なことがかれらの身に起こったとしても、かれらが語り部として後世に伝えることはありません。

だけど、

かれらはどこかでだれかと共に生きて、どこかのだれかの大切な存在であったはずです。今、私たちが犬や猫やほかの動物と暮らす幸せが、あの時代にも同じようにあったはず。

戦争は私たちから大切なものを簡単に奪い去る。

何気ない日常のなかの幸せ、あたりまえのように存在してた幸せも、すべて容赦なく奪っていく。

あの日、73年前の広島の朝、奪われたのは10数万人の人間の命だけではなく、動物や自然、命あるものすべてが理不尽にその生を絶たれたのだということを忘れずにいようと思います。